子どもを反省させる方法:コネクティングコーナー
この記事では子どもにリフレクションコーナー(子供を部屋の隅で、反省させること)をさせるの代わりに、コネクティングコーナーという試みがあることを紹介します。子供をノーティーチェア(反省用の椅子)や部屋の隅に座らせて反省させる試みは、イギリスのテレビ番組「スーパーナニー」によって広く知られるようになりました。
もちろん、部屋の隅やノーティーチェアに子供を座らせることは特別新しい考えではありません。スーパーナニーの放送前から、その方法は存在していました。しかし、厳密いえば、反省を促す目的でなく、単に罰則を与える方法として使われてきたのです。元々の目的は、悪いことした子供の気分を滅入らせることだったのです。
わずか1〜2歳の子供は深く反省することができないことは明らかです。小さな子供を「リフレクションコーナー」に送る試みは、子供に自身が何か間違っていて、怒った両親が自分のそばに居たくないのだと理解するでしょう。もちろん、これは親が望む本来の目的とはかけ離れています。
子供は自分が間違ったために、両親からの愛を失ったのだと解釈至することさえあります。孤立させることを刑罰に取り入れると、愛には条件があるという間違ったメッセージとして伝わってしまいます。”正しく振舞うのなら、愛を与える”。子供たちがこのメッセージを受け取ると、彼らは不安を覚えるでしょう。
子供たちがまだ自分の行動を制御する術を学ぶ最中であると覚えておくことが重要です。小さな子供たちには特に当てはまります。
つまりは子どもが悪いことをしたとしても、その背後にはコントロールできない何らかの理由がある場合が多いのです。にもかかわらず罰してしまえば、子供は不満感じるでしょう。子どもは自分の行動に焦点を当てるのではなく、親の反応に焦点を当てるようになります。
もし「リフレクションコーナー」に効果があるように見えても、それは子供が両親からの愛や承認を何よりも望んでいるからです。そして、もちろん、この場合、子供はある程度自分の行動をコントロールする能力を持っていると言えるでしょう。そうでなければ、「リフレクションコーナー」はまったく効果がないはずです。
コネクティングコーナー
「コネクティングコーナー」とは、子どもに自己制御を取り戻す必要があると認識させ、その状況から彼を抜けだ出させるという信念に基づいています。もちろん、リフレクションコーナーと大まかな意図は同じものです。しかし、コネクティングコーナーとの違いは、子供が親や信頼できる大人と一緒に反省させることです。
コネクティングコーナーは、モンテッソーリの哲学の中でも特に人気のが高い「ピーステーブル」に少なからず似ています。しかし、ピーステーブルは子供が自発的に赴く場所です。また、ピーステーブルでは子どもが誰かを同伴させるかの決定権を持っています。
コネクティングコーナーの場合、決定権は親にあり、必ず誰かしら、子供に同行する人が必要です。
もう一つの違としては、ピーステーブルは、通常、名前の通りテーブルのような物理的な空間を意味します。それは、家の中の静かな場所に置かれた箱、ベンチなんでも構いません。しかし、コネクティングコーナーには特定の場所や空間は必要ありません。
コネクティングコーナーという名称は、あくまでリフレクションコーナーというアイデアの対照的な考えということを明示するものです。コネクティングコーナーは、実際の物理的な場所を指す言葉ではありません。
公園のベンチ、ベッド、裏庭、その時々あった場所がコネクティングコーナーになります。あなたと子どもが一緒に何かをし、双方が落ち着くことのできる場所であればどこであっても問題ありません。
コネクティングコーナーとでできるアクティビティ
子供の自己制御を取り戻させる試みであれば、内容はそこまで重要ではありません。
例としては、物語を読み聞かせる、絵を描く、紙を小く割く、ジャンプする、叫ぶ、走る、深呼吸する、木の葉眺める、呼吸に伴うお腹の動きを観察する、鼓動をを聞く、水を飲む、何かを食べるといった活動が挙げられます。
ご覧のとおり、非常に幅広い試みです。
子供が落ち着き、コントロールを取り戻したように見えたなら、子供が間違えしまったポイントについて話し合う時です。厳しい言葉でなく、あくまで優しい言葉を使用するように心がけましょう。
子どもにこれからの振る舞いついて話してみてもいいかもしれません。可能であれば、誤りを正す方法を子供自身に考えさせてみても良いでしょう。
なぜリフレクションコーナーよりも効果的なのか?
まず第一に、子供から信頼の置ける大人を取り上げない、関係を遮断しないからです。第二に、子供が自分の感情をコントロールする上でも、行動を省みる上でも、役立つものを提供することができるからです。そして最後に、父や母、信頼できる大人よって守られ、励まされながら心から反省することができるからです。